三十五、渡河(1)

 暑い。毎日暑い。じっとしていても汗でベタベタだ。こんな陽気には食べ物なんかを放っておくとすぐ腐るが、生きている人間もうっかりするとどうにかなってしまうんじゃなかろうか。そういえば、水虫の人なんかは夏場に悪化しやすいって聞いたことがある。高温と、汗でずっと湿っていることがいけないんだろう。
 隊長室の窓も扉も全開にしてあるが、風が全くなく蒸し風呂状態だ。じっと立っているだけなのに呼吸がゼエゼエする。隊長、喘息大丈夫なんですか、と思って見ると、隊長は気持ちよさそうに爽やかに汗をかきながら石臼でせっせと胡椒をすりつぶしている。そうだよな。暑い時は、あえて体を動かしてスカっと汗をかいたほうが楽なんだ。そうでなければ、川に入ってじゃぶじゃぶと水遊びでもするかだな。

 俺が目を閉じてどこかの山奥の谷川のせせらぎの音や木漏れ日や鳥の鳴き声を思い浮かべながら気分だけでも涼しくなろうと妄想力を働かせている時に、折よく張屯長が黄屯長と連れ立ってやって来て、
「隊長、渡河訓練しましょうよ。」
と、おねだりをした。渡河訓練、つまり川にじゃぶじゃぶ入って向こう岸まで渡る練習だ。ヤッター、水遊び~! 訓練なんて言ってるけど、ぜったい水浴びしたいだけだろ、張屯長。望むところだ。ぜひやろう。隊長も当然乗り気になってくれるだろうと思いきや、なぜか渋い顔をした。
「ああ~、渡河訓練かあ~。確かに、そういうこともやんなきゃいけねえなあ……。」
「やりましょうよ。水に入るなら今。今しかないす。」
「昨年配属された新兵は一度も渡渉経験ありませんよ。」
屯長たちが口ぐちにくどく。そういえば、新兵もそうだが、隊長が水に入ってるところもいっぺんも見たことないな。…………。
「あのお、もしかして、一回溺れたことがあるから怖くて水に入れないってわけじゃないでしょうね?」
「え。いや。まさか。入れないってことはないよ。……たぶん。」
「エ~!」
なぜか嬉しそうに叫ぶ張屯長。黄屯長は眉をひそめる。
「それ、困りますよ。もし実戦で川を渡る必要が出たらどうするんですか?」
「渡ります。当たり前。」
「しかし練習でできないことを本番でいきなりできますか?」
「いや、できなくはないよ。……たぶん。」
「じゃあやっときましょうよ、この際。」
「だよねえ……。」
珍しく歯切れの悪い返事をしながら動揺もあらわに顔をごしごしとこすって、胡椒の粉末に鼻腔びこうを刺激されて立て続けにくしゃみをし、慌ただしく鼻をかんで咳をする。動揺しすぎだろ。

※隊長の溺水体験については「十一、蟻地獄(2)」で言及



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