三十、春雨(5)

 総身のだるさが消えた。腹の底から力が湧いてくる。おかしいよ、ぜったい。あんなちっぽけな飴一個で大の男に力が漲るわけないじゃないか。麻薬でなければ妖術に違いない。足腰の痛さは変わらないが、身体が軽量素材でできてる感覚が戻って来た。おかしいな。今日はおかしなことばかりだ。隊長は満足げにみんなの様子を見まわすと、にこやかに話しだした。
「さて、ここで問題です。我々は四日前に南鄭を出て七百五十里を行軍してきました。いま目の前に見えている城はどこの城でしょう。ただし、北東方向に秦嶺を越えて行軍したと仮定します。」
陳倉ちんそうー。」
「陳倉~!」
馬鹿な戦友たちが口ぐちに答える。
「ギャハハハ。陳倉は北に六百里だ。」
洛陽らくよう~。」
ぎょう!」
太原たいげん?」
「違うよ。」
隊長はニヤリと笑った。
「長安だ。」

「城まであと五里だからな。ここから松明の数増やして景気よくやろう。」
各伍に一本ずつ、皓皓こうこうと灯す。斉声吶喊せいしょうとっかんし、軍歌を歌いながら城下に至る。すると、訓練用の城壁の上からぴょこっと顔を出し、
「おかえりなさーい!」
と呑気な声で迎える連中がいた。隊長が気軽に答える。
「ただいまー。お疲れ様です。」
せっかく士気を高めて敵城下に至ったっつうのに、雰囲気ぶち壊しだ。
「もう鍋を火にかけていいですかー?」
「はーい。お願いしまーす。」
うお、やったー。メシだメシだ、ほかほかのごはんだー! 炊事班の人たちに食事の用意をお願いしていたんだろう。七百五十里もの長旅なのに、何が何でもこの時刻に到着するって決めてやってたのかな。もしも到着が遅れたら、炊事班の人たちは待ちぼうけで、食材は痛むというのに。
 再び斉声吶喊せいしょうとっかんし、いっせいに城攻めに取りかかる。やる気満々で城壁を登る。猿のようだ。あるいは、この運動があたかも垂直移動ではなく平行移動であるかのようだ。各々城頭に登っては雄叫びをあげる。雄叫びをあげろなんて指示されてないんだけどな。よくやるぜ。馬鹿だろ。
 俺も馬鹿のご多分にれず城頭に至って雄叫びをあげる。もう全体の三分の二くらいは登ったようだ。俺の士気および体力は中の下といったところだろう。背中がカクカクいっている。これでよく城壁なんか登れたものだ。
 城壁の下を覗く。へばっている奴はいない。手間取ってる奴も、まあなんとかえっちらおっちらと登っている。隊長は手伝うでもなく励ますでもなく、腕組みをしながら静かに眺めている。炊事班の連中が
「もう春雨入れていいですかー?」
と訊ねた。
「はーい。お願いしまーす。」
大きな声で返事をすると、城壁にとりついている連中に向かって、隊長はにこやかに言った。
「今日のごちそうは金針粉絲肥牛ジンジェンフェンスーフェイニウだ。早く登らないと春雨が伸びちゃうぜ。」
春雨が伸びちゃう、の一言で俄然元気になる仲間たち。馬鹿だ。



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