三十、春雨(3)

 四日目。山の木々の香りも嗅ぎ飽きた。川の水音も聞き飽きた。やっぱこの行軍キツイっす。精神的に。朝から晩までおんなじ風景だ。そして、明日になっても夕方まではずーっと同じ風景だ。涙が出そうだ。
 日が西に傾いてきた。しんみりした気分で歩いていると、隊長が遠慮がちにみんなに声をかけた。
「はい、お楽しみの胡椒飴こしょうあめだぞ~。」
「ええ~、山椒飴さんしょうあめじゃないんですかあ?」
うつろな声で聞き返す文喜に、
「ま、お楽しみに。ひゃっひゃっひゃっ。」
と高笑いを返す。何が楽しいんだか。胡椒飴の甘辛さが心に沁みる。
 夜になった。頭がぼーっとする。変に息切れがするし足取りが重い気がする。気のせいだろう。ちゃんと指定された速度でサクサク歩いてる。
 四日目の行程を終え、いつも通り熟睡する。いついかなる場所でも気持ちよくスヤスヤと熟睡できるのは俺の得意技だ。――夜中、妙に胸苦しくなって目がぱっちりと開いた。珍しいことだ。暗くてよく見えないが、そこらじゅうに仲間がゴロゴロ寝ているのはよく分かる。星がやたら綺麗だ。心細い。

 心細い、と思った瞬間に得意技を駆使してポテっと眠り、起床時間までキッチリ熟睡した。とうとう五日目の朝がきた。今日で行軍最終日だ~! ルンルン。最後に城壁を登るのが面倒くせえが、ま、勢いでできるだろう。
 ルンルン、ルンルン、ルンルン……なんか、腰に違和感あるな。ま、気のせいだろう。風景はあいかわらず単調だ。しかし、もうしばらく行くと下り坂になって、景色も人里に近付いてくることを、俺達は知っている。
「ギャハハハハ、バッキャロー。」
おっと、下り坂で早足になってましたか。おかしいな。
「はい、歌え。国殤こくしょう。」
  操呉戈兮被犀甲…… (呉戈ごかり 犀甲さいこうて……)
「うんうん、上手です。」
当たり前じゃないかよ。――おかしいな。膝がガクガクだ。
 指定された速度でキッチリ歩いている。おかしいな。下り坂、いつまで続くんだろう。いやいや、時間もさほど経ってない。予定通りだろう。
「はい、お待ちかね。山椒飴。」
上機嫌な声で言う。隊長の野郎、一人でルンルンしていやがって。いやいや、おかしいな。俺だってルンルンしてる。だってもうすぐ南鄭なんていだ。
 見えてきたぞ。漢中が。漢中盆地が。ああ~、泣ける~。ほらほら、咲いてますよ、隊長の好きな菜の花が。出かける時はそうでもなかったのにな。四日も経てば、世界も変わるよ。ヤッタ~! 漢中だ、漢中だ。ルンルン。なんか、息切れする。もしや喘息かな? 喘息って伝染うつるのかな? まさかな。俺ゼエゼエいってます。隊長大丈夫ですか? と思って後ろを見る。隊長が俺の振り返っているのに気付いてこっちを指さしニヤリと笑う。ああ、そういえば、出発前に「最後の一日は、それはそれはキッツイぜ~。」って予言してたんでしたね。はいはい。クソッ。



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