二十、お山の鳥の声(6)

 半月ほどのあいだ散関の守りに就いていたが、交代の部隊が関に入ったので、魏鎮北と姜奉義の部隊は一部を除いて丞相が本陣をかまえた祁山きざんに移動した。道中、秋播きの麦が青々と実っているのが見える。今回、もし遠征が長引くようならそこらの麦を勝手に刈り取って兵糧にしちまうんだろうか。係争地の住民は不幸だ。
 翌月、長安からの敵の援軍が祁山きざんに到着した。渭水いすいを渡り、我々を威圧するように黒々と大地を埋める。「司馬」とか「張」とかいう旗が見えるが、司馬懿しばい張郃ちょうこうだろうか。そんな有名人が間近にいると思うと面白い。厩舎きゅうしゃで呑気に馬の毛をいている隊長に王仲純おうちゅうじゅんが絡んでいる。
「隊長、あの司馬って旗のあるとこまで一っ走り行って司馬懿の野郎をぶちのめして来て下さいよ。」
「ぶちのめすだけで満足? 顔に落書きとかして来ねえでいいの?」
「なに書いてきます? 逆賊とか?」
「もっと思いっきりバカバカしいのがいいんじゃねえ? まぶたにお目めを描いちゃうとか、鼻の下に鼻毛を描き足しとくとかよ。」
馬鹿話をしていると、厩舎の奥から
「本当に行ってくるか?」
というオッサンの声が聞こえたので、誰かと思って見てみたら将軍がニヤニヤしてこっちを見ていたからびっくりした。隊長は真面目くさった顔で答えた。
「はい。百歩以内まで誘導して頂ければキッチリぶちのめして目と鼻毛を描き足して来ます。」
「馬鹿か。生け捕りにして来い。」
「かしこまりました。」
エ~、そこでかしこまっちゃうと冗談が冗談じゃなくなっちゃうんだけど。
 今の会話はつまり、こういうことだ。将軍が上手く指揮をしてうちの部隊を司馬懿から百歩以内まで近づけてくれれば司馬懿を生け捕りにしますよ、って隊長が宣言したことになる。なんだそれ。大言壮語癖かよ。
 隊長は呑気に馬を引いて厩舎から出て雑草を馬に食わせている。仲純はうっとりと隊長を眺めている。二人とも馬鹿だ。俺は何がどうムカついてんだか分からないが無性にムカついている。
「功名心ないんじゃなかったんですか?」
つっけんどんに訊ねる。
「べつに誰が働いたっていいじゃん。」
へらへらしやがって、わけのわからない野郎だ。
「本気で司馬懿を生け捕りにできると思ってるんですか?」
「いや。殺そう。」
どこまで馬鹿なのだろうか。あまりの馬鹿さかげんに不気味になって顔面蒼白で絶句している俺を眺めて、隊長はゲラゲラと笑い始めた。
「そんなことできるわけねえと思ってる? ギャハハハ、できるよ。皆さんにはできます。俺ができるって言ったら、できる。」
「そんな無茶な。」
「おれ無茶なやつなんだ。」
「それは知ってますけど。なんでわざわざ宣言するんですか? 馬鹿ですか?」
「司馬懿を生け捕りにするって騒いでる奴がいるってことになれば、上の人らもなんとなくそういうつもりで動いてくれそうじゃん? 魏には司馬懿とかいう奴もいるらしいなって思いながら漫然と戦ってるよりも、司馬懿って人は早々に名指しでキッチリ息の根を止めといたほうがいいよ。野郎ちょいと普通じゃねえもん。最初の北伐の時に孟達もうたつがこっちに寝返ろうとしてたのを、通常の手続きをはしょってえんから上庸じょうようまでの千二百里をたった八日で駆けつけて計画を潰しちまうという奇跡を成し遂げた人じゃん? そんな奴を野放しにしてたらだめだな。」
「でも隊長が将軍を焚きつけてその気にさせちゃったら、我々がそれをやらされますよ。」
「いいじゃん。やろうぜ。」
「馬鹿な上官を持つことは不幸だ。」
俺がしみじみと溜息をついて落ち込んでいると、仲純は俺と真逆の方向の心配事を口にした。
「将軍がその気になってくれても、丞相がその気になってくれなければなかなかやる機会がなさそうですね。」
「そうだな。一っ走り丞相にも話しに行ってこよっと。」
さっそく馬に鞍を付け始める。
「えっ、まさか俺様が司馬懿をぶっ殺してやるって売り込みに行くんですか?」
「そ。」
はああ? 「そ。」じゃねえよ! どこまで馬鹿なんだよ! 俺の心の叫びをよそに、隊長は楽しげに馬に跨り行ってしまった。



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