サブキャラメモ

陳屯長:季寧の上官。常識人。説教おやじ。
黄屯長:武闘派。
張屯長:お祭り好き。
梁屯長:心配性。
呉屯長:ぼんくら。
王什長:季寧の上官。ジャンケン弱い。
王仲純:筋肉馬鹿。
周子儀:剣豪。
李叔遜:季寧の友人。
李仲毅:なんでもできる。
魏鎮北(のち魏征西):魏延。季寧の部隊の将軍。
張車騎:張飛。隊長の元上官。
姜奉義(のち姜征南、姜鎮西):姜維。
丞相:諸葛亮。

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書と美人画の名人 智将・張飛の故郷「張飛店」(原題:张飞与张飞店 記者:杨少山)

中国河北省の涿州博物館のホームページに、従来の張飛のイメージをくつがえす素敵な記事を見つけました。
その和訳を掲載させて戴きます。
涿州博物館ホームページ:  http://zzbwg.org.cn/HomeS/Index/
「张飞与张飞店」記載ページ:  http://zzbwg.org.cn/NewS/ShowS/115/?channel=6

 *   *   *   *   *

涿州の西南十里の地点にひとつの村があります。名前は張飛店、あるいは忠義店といいます。これが三国志の名将、漢の桓侯張飛の故郷です。後漢の時代、この村は桃庄と呼ばれていました。張飛が劉備・関羽と自宅の桃園で義兄弟の契りを結んだのち、人々は彼らの忠義を紀念するために村の名前を忠義店・張飛店と変えました。

元の至元六年(西暦1340年)の時点には、村の西に威厳にみちた壮観な張飛廟がありました。廟の傍らには張飛が肉を保管した古井戸があり、廟内には古木がそびえ立ち、高くて大きな石碑の上には張飛の足跡が刻まれていました。張飛の泥塑像は威風凜々として、意気揚々としたたたずまいをしていました。手には一丈八尺の鋳鉄長矛を持ち、大殿の中に屹立していました。清代の詩人曹仁虎の「岩岩廟貌凛眉須、想見雄姿敵万夫」という詩句は、私たちに当時の張飛廟の情景を彷彿とさせます。

言い伝えによれば、桃園の誓いの時、張飛は劉備が本物の人物であるかを見抜くために、井戸の上にすだれを敷いただけの席を劉備にすすめました。劉備は落ち着き払って談笑しており、井戸に落ちなかったため、張飛は劉備を天子の器であると嘆息し、心服しました。惜しいことに、張飛廟は文化大革命で取り壊され、砕かれた碑や石が路傍に散らばることとなりました。廟にあった一丈八尺の鉄矛も1958年の大煉鋼鉄の時に溶銑炉に入れられました。現在ではわずかに張桓侯古井遺跡と石碑、そしていくつかの逸話が残っているのみです(※1)。

張飛の家は決して貧しいほうではなく、家には少なからぬ田畑と桃園がありました。張飛は小さい頃から父親と一緒に豚肉をさばいて売っていました。夏には家の前にある井戸に生肉を貯蔵していました。

張飛はかんしゃく持ちで気性が激しく、読書を好みませんでした。いつも村の子供たちとけんかをしてはもめ事をおこしていました。七歳になると、父親は張飛のためにしばしば家庭教師を雇いましたが、そのたびに家庭教師が張飛に腹を立てて出て行くか、張飛によって追い出されました。このため、父親はいつも張飛を家に閉じ込めて厳しくしつけていました。

張飛の母方のおじの李志は張飛が幼いながらも高い志を持っていることに気付き、張飛の前途を誤ることをおそれ、王養年という武将を張飛の先生として推薦しました。王養年はもとは朝廷で官についていた人で、知略と武略に通じていましたが、朝廷の腐敗と愚昧に愛想を尽かし、かぶとを脱いで(官を辞して)田園生活をしながら人に学問を教えて生計をたてていました。不思議なことに、王養年は張飛に会うと非常に気に入り、張飛は王養年に畏敬の念を抱きました。そしていちずに敬意を持って教えを受けました。王養年は張飛に学問と武道の両方を教えました。張飛の進歩は早く、十三歳になったばかりで『春秋』を読み、『左伝』を見て、『孫子の兵法』に精通し、武芸にも熟達しました。

ところが、詩書を理解してものの道理や義について分かってくると、張飛は世の中のありさまに不平を覚えるようになり、天下をうち平らげて民衆を救うのだと息巻くようになりました。王養年はこのままいくと張飛にとってよくないことになるだろうと心配し、情操教育のために書道と美人画を練習させました。手取り足取り教えて三年が経つと、張飛の書と画の腕前は有名になってきました。張飛の書法には独自のスタイルがあり、独特の風格をそなえていました。張飛の書いた摩崖字(崖や大石に書き記した文字)は後世の人たちに賞賛されました。清代の詩人紀昀(きいん。『四庫全書』を編纂した人)は次のような詩を書いています。「慷慨横戈百戦余,桓侯笔札定然疏。哪知拓本摩崖字,車騎将軍手自書(※2)」

張飛の絵画は、漢代の画家曹丕興に比肩しうるほどでした。『歴代画征録』にはこう記載されています。「張飛:漢の涿州の人。美人画の名人。」
言い伝えによれば、かつての涿州鼓楼北墙の壁画「女媧娘娘補天図」と房樹村西万仏閣内の壁画は張飛が描いたものだそうです。

張飛は心を込めて書法を修め美人画を描いたため、粗の中に細のある(おおざっぱな中に緻密さのある)性格になりました。『三国志演義』や『後漢演義』にあるエピソード「張飛 計をもって曹将劉岱を捕らえる」「張飛 智をもって瓦口隘を取る」「当陽長坂坡にて独りで曹操の百万の兵を退く」「巴蜀を取り義をもって厳顔を釈す」などの描写から、張飛はただ雄壮で武威があり万人の敵と呼ばれるほどの虎のような臣下であるだけでなく、粗の中に細のある知略にすぐれた上将であることを知ることができます。これらの特徴は、若い頃の情操教育と性格の陶冶に関係しています。

張飛が16歳の時、王養年は病没しました。張飛は師のために盛大な葬礼を行い、墓碑を建て、「王公養年之墓」と刻みました。この墓碑は近年まで存在しており、村の外で見たことがあるという人がいます。
後漢の末年に劉備・関羽・張飛が桃園の誓いをしてからは、張飛は劉備・関羽と行動をともにし、情は手足のごとく、恩は兄弟のようでした。あるときは戦場で戦い、あるときは謀を帷幄の中にめぐらし、漢室の天下三分に犬馬の労をつくし功績を積みました。のちに部下の張達と范彊によって殺されました。
張飛は従軍する以前、いつも城の西側五里の地点にある水のきれいな池で馬を洗っていました。張飛が家を捨て国に仕えてから後、村人は張飛が馬を洗った場所を桓侯洗馬潭と呼ぶようになりました。昔の人は張飛をしのんで詩にこう歌いました。「鉄面丹心上将才,荆襄莽蕩陣雲開。横矛去佐三分業、無複澄潭洗馬来」


※1:張飛廟は1991年に再建されました。
※2:「戈を持ち戦っていた張飛であるから書は下手であろうと思いきや、拓本になっている摩崖字は張飛の書いたものなのである」桓侯は張飛の諡号(死後に送られる号)、車騎将軍は張飛の役職、哪は疑問代詞
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※涿州博物館に下記のメールを送ったうえで掲載しています。

【メール1】
《关乎贵馆网站所载信息“张飞与张飞店”的翻译及转载》

涿州博物馆:
欣闻贵馆事业日进,深表祝贺。

我是日本的一个三国迷。偶尔看到
贵馆网站所载的信息“张飞与张飞店”(杨少山先生所写),十分感动。
日本大部分人只知道张飞雄壮威武的面貌,不知道他粗中有细、足智多谋的特点。

我愿意给我国许多爱好三国的同胞们介绍这号贵重信息,
因此把“张飞与张飞店”翻译成日语,预定从6月30日起,
向我私人网站https://www.3594.fun上载。
我相信这号信息使日本人更喜欢张飞,对涿州更感兴趣。

我私人网站https://www.3594.fun的内容仅是
自己写的三国小说和有关三国或中国的一些随笔而已。
仅爱好三国,其它没有任何主张。

上述事宜,我恳请贵馆应许。
如果有条件,请跟我联系。

非常感谢贵馆使我进一步了解张飞深奥的魅力。

  此致
敬礼!

xxxx;(网名:xx蜜柑)
2018年6月20日

【メール2】
涿州博物馆:
关于2018年6月20日递给贵馆的电子邮件
《关乎贵馆网站所载信息“张飞与张飞店”的翻译及转载》,
明天2018年6月30日我就把翻译成日语的“张飞与张飞店”向我私人网站上载。
如果有问题,请跟我联系。
谢谢!
xxxx;(网名:xx蜜柑)
2018年6月29日

よかミカンの中国ピンボケ漫遊記 ~いつもピンボケ。こうやって生きてゆく。

新しい記事が上にくるように並んでいます。

No.21 中国四大火炉

 中国で、夏に暑くなることが有名な都市を三つ並べて「中国三大火炉」という呼び方をします。火炉はボイラーのこと。三つの都市は南京、武漢、重慶です。
 私は三大火炉ぜんぶ行ったことがあり、南京は秋に行きましたが、武漢と重慶には夏に行きました。いずれもさほど暑さを感じませんでした。これまでの人生で最も暑さを感じた場所は、長沙です。ペットボトルの水がお風呂のように熱かったです。
 最近知ったのですが、「中国四大火炉」という言い方もあるようで、それだと四つ目に長沙が入っています。そうだよね、やっぱり長沙は暑いよね、と納得しました。

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No.20 冬の風物詩

 冬になると、胡同(フートン)と呼ばれる古い住宅街では暖房用の練炭を満載した手押し車をよく見ました。街角ではドラム缶に石を入れて焼く「烤白薯(カオバイシュー。白い焼き芋)」が売られるようになります。学校の寮の目の前の大通りにいつも烤白薯売りが来ていたのですが、アツアツの状態で買っても100mほど先の寮に帰るまでには人肌程度に冷めてしまうので、いつも抱えるようにして急いで持ち帰っていました。
 面白い光景としては、スイカを満載した馬車が、他の季節には見かけないのに冬にだけちょくちょく走っていました。南方の暖かい土地でとれたスイカを冬の北京に売りに来ているそうです。四車線の大きな道路の交差点を、信号に従って馬車が悠然と左折していく様子は壮観でした(中国は車は右側通行です)。
 雪が降った後には、大きなスコップでカチカチに凍った雪をガンガンと叩き割って雪かきをする人の姿をよく見ました。雪かきされていない場所を平気で自転車で走ってすっ転んでいる人もよく見ました。

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No.19 まいにち中華料理

 中国で最も安価に食べられるのは当然ながら中華料理なので、留学中は毎日中華でした。和食が恋しくなったことは一度もありません。中華にもお米はあるし、北京料理の味付けは醤油ベースだったので、主観的には和食を食べているのと大差ない感覚でした。
 中国で恋しくなったのは洋食です。こってりとしたカルボナーラとか、白身魚のブールブランソースのポワレとか、ああいう乳製品の油っぽさに飢えました。これは高級なホテルのレストランにでも行かないと食べられないものでした。大きなスーパーでも生クリームは手に入らず、バターもめったにありませんでした。
 ヨーグルトとパンは中国人の食生活に完全に根付いているようで、かなり田舎の小さなキヨスクでも簡単に手に入るので、どうしてもという時にはパンを食べていました。

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No.18 大秦景教流行中国碑

 西安へは出張で行きました。最終日は帰国するだけの日で、飛行機が午後の便だったので、午前中は西安市内をぶらぶらと散策しました。
 「碑林」という場所のことは知らなくて、地図に載っているので何だろうと思い寄ってみました。何気なく行きましたが、有名な文書の碑がたくさんあってびっくりでした。世界史の教科書に載っていた「大秦景教流行中国碑」の現物も、他の碑と並んで何気なくあったので、本当にびっくりしました。
 中国では、何気なくぶらぶらしているだけですっごい物が何気な~くあるのに遭遇することがよくありました。すごいものがたくさんありすぎるからいちいち騒がないのかもしれません。

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No.17 歴史の長さゆえの。

 故宮博物院は清の宮殿だった建物が公開されているもので、中にはさまざまな文物が展示されています。大体はガラスケースに入っていたりロープで仕切られていたりするのですが、一つの建物の入口近くに、なんの囲いもない大きな虎の石像がありました。
 触るなとも何とも書かれておらず、石像は大勢の人が撫でた様子でつるつるになっていました。説明書きを見ると、漢代の墳墓から発掘されたとあります。中国には四千年も前の王朝の遺跡もあるので、二千年くらい前のものはさほど貴重だと思われていないのかも、と感じました。
 西安の「碑林」には石に刻まれた貴重な文書が展示されていますが、そこでもほとんどの書は剥き出しになっていました。

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No.16 冬の散歩

 北京滞在中、一番気温が低かった日は日中の「最高気温」がマイナス11度だったのですが、そんな日だとも気付かず東京を歩くのと変わらないようなジーンズ、セーター、ダウンコートで出かけ、特に寒さも感じませんでした。
 その日は1時間程度の外出だったのでなんともありませんでしたが、他の日に、寮から1時間半ほど歩いたところにあるお寺を観光して、たくさんある仏像をひとつひとつ説明書きを読みながらのんびり眺めていたら、1時間ほど経った頃、衣服に覆われていない顔が冷えてビリビリしてきました。
 お寺観光を中断して故宮方面に歩き始めましたが、しばらくすると頭がガンガンしてきました。地元の子供たちを見ると一人残らず帽子を被っていたので、ああそうか寒い日は帽子をかぶらないといけないのかと気付きました。
 故宮のお堀はカチカチに凍った上にゴミが積もり、その後の雪で新たな氷の層ができ、そこにもゴミが積もっていました。

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No.15 清代の城壁

 北京の城壁は交通の便をよくするためという理由でほとんど取り壊されているのですが、鉄道の北京駅の近くに、一部保存されている場所があります。
 北京城東南角楼といって、かつての城壁の東南の角を守るための、城壁から少し出っ張った四角い形の建物で、きれいに修復されて博物館になっており、中に入ることができます。
 入場料はさほど高くなく、展示物もさほどすごい感じもありませんでした。入場客が少なく、古城の情緒を楽しむにはいい場所でした。
 角楼の外を歩いてみました。その付近は、どうやら近代化の折に城壁を取り壊しそびれたような感じでした。壊れかけの城壁の瓦礫が砂山のようになっていて、そばにはゴミだらけの民家が並んでいました。

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No.14 天安門広場

 北京留学中はよく天安門広場に散歩に行きました。学校から7キロほどの距離ですが、3元(日本円で50円程度)の地下鉄代をケチっていつも歩いて行っていました。
 広場に行って何をするともなく、ボケーッと天安門に飾ってある毛沢東の肖像画を見たり、凧揚げをして遊んでいるおじいちゃんを眺めたりしながらぶらぶら歩き、北京にいる気分を満喫していました。
 南北に880m、東西に500mという広さだそうで、そこを自由にぷらぷらと歩けるようになっていて、凧揚げしてる人と写真撮影してる人が目立ちました。時々軍人さんが隊列組んで歩いたりもしていました。
 いつもは賑やかな天安門広場に、一人しか人が見当たらなかったことがありました。1月初旬のとても寒い日で、風も強く、たった一人いたおじさんは寒そうに黒いコートの衿を立てて縮こまっていました。きっと寒すぎて誰も出歩いていなかったんですね。私も現在に到るまで記憶に有る限り最も寒かったのがその日でした。

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No.13 北京の冬

 北京の人が「上海は寒い!」と言っているのを何度か聞いたことがあります。上海のほうが南方ではるかに暖かいのですが、なまじ暖かいために暖房が完備されておらず寒いのだそうです。
 北京はセントラルヒーティングで、建物の中はポカポカです。ヒーターに循環させるお湯は上から回していくので、ビルの上層階では半袖で過ごすほどです。
 私が留学中に滞在していた寮は二重窓で、窓と窓の間がちょうど冷蔵庫くらいの温度になったので、9月に留学開始してからの半年間は冷蔵庫いらずでした。北方では春節(旧暦のお正月)の時に餃子を食べるのですが、年末に大量に作っておいて、屋外に置いておけばカチカチに凍って保存がきくので、それを春節の期間じゅう食べることができるそうです。
 留学した年の11月3日に、寒いな~と思いながら外出したら、噴水が吹き出した形のまま凍っていました。私はアイスを食べながら歩いていたのですが、のんびり食べていても溶けないので快適でした。

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No.12 故宮一望、景山公園

 北京2泊3日ツアーだと、初日はたぶん故宮博物院観光、そのあと王府井でショッピング、夕食は全衆徳で北京ダック、といったところでしょうか。ショッピングにあまり関心のない方には、王府井を短めに切り上げて、王府井の北の終点から西へ1キロほどの景山公園へ行ってみられることをおすすめします。
 景山公園は故宮の裏山で、てっぺんの万春亭からは故宮の黄色い瓦屋根の建物群が一望のもとに見下ろせます。それを中心として北京の市街がマス目状に整然と整備されている様子も分ります。歴史を感じさせる故宮と最先端の高層ビルとが同居している街並みはたいへん壮観です。青い空と黄色い瓦屋根の色のコントラストも素敵です。
 地元の人は年間パスポートを持っている様子で、おじいさんが楽器を弾いていたり、小さな子供が遊んでいたりします。私は北京留学中しばしば景山に登り、万春亭にぼーっと腰掛けてナツメ餡入りの月餅を食べたり、しゃぼん玉を吹いて遊んだりしていました。

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No.11 金代の城壁

 北京は古くから続く都市なので、いろんな時代の城壁が残っています。一番新しい清代の城壁は一部を残して撤去されており、他の時代の城壁も風化して、土の塊のような状態になっています。私は清、遼、金の三つの時代の城壁跡を見たことがありますが、一番面白かったのは金代の城壁跡でした。
 北京西駅から南に3キロほどの金中都城遺址公園へ行ったのですが、周りはなんでもない住宅地でした。公園自体もなんでもない感じで、10平方メートルほどの区画に倒れた石像がゴロゴロしていて土の山があるだけでした。誰も観光しておらず、柵には隣の家の人のお布団がぶらぶらと干してありました。なんとも牧歌的な風景でした。
 公園を探し歩いているうちに、土地の人たちが集まってきて、あっちじゃないか、いやこっちだ、と一緒になって探してくれて、しまいには30人くらいの人数に昇ったのも、素敵な思い出です。

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No.10 北京人と重慶人の会話

 列車旅行中、同じボックス席に座っていた北京人が「雨が降ってきた」と言うと、その向かいに座っていた重慶人が「え、何?」と聞き返しました。「雨が降ってきた」「何?」「雨が降ってきた」「何?」このやりとりを、六回ぐらい続けていました。
 こんな簡単な言葉も通じないのかと思いましたが、実際通じてませんでした。私も重慶の人の言うことはさっぱり分かりませんでした。「ここにお座りなさい」と言ってもらったのが、「これは左ですね」と言っているようにしか聞こえない。ボディランゲージで補いながらやっと意味が通じる感じでした。
 以前、イタリア人とブラジル人が互いに自分の母語をしゃべりながら会話が通じているのを見たことがありますが(似ているから分かるのだそうです)、北京語と重慶語はイタリア語とポルトガル語よりも離れているのかもしれません。

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No.9 報仇雪恨

 重慶での地図の買い方は失敗だったと思っています。中国人相手の交渉で、向こうの主張を引っ込めざるを得ないところまで追い詰めて目先の勝ちを取るのはいい方法ではないですよね。面子を大切にする人たちですから。
 報仇雪恨(仇に報い恨みをすすぐ)という言葉があります。これは日本人から見ればずいぶんとおどろおどろしい言葉のように見えますが、中国では、嘘をつきませんとか借りた物は返しますとかいうのと同程度の当たり前の徳目です。ここをゆるがせにすれば、腰の据わっていない信頼のならぬ奴と思われることでしょう。面子を傷つけられて報復もしないような人は仲間を守れるわけもないからです。
 中国人の面子を傷つけたら大変です。顔を立てながら上手にお付き合いしたいものです。

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No.8 地図の話

 どこかを通りかかり地図で確認する、という動作がこれまで多かったですね。そんなにいつも地図を持ち歩いているのか、と思われそうですが、実際、中国ではいつも地図を持ち歩いていました。
 初めての街に着くと、まず当地の「交通地図」を買う習慣がありました。バス路線やちょっとした時刻表が載っていて、タクシー代をケチりたい私にはたいへん重宝する地図でした。私が留学していた当時はたしか2元で買えたと思います。
 重慶では、売り子のおばちゃんに「3元」と言われ、「交通地図は全国共通で2元なんじゃないの?」と聞いたら、「他の土地では2元でも重慶は直轄市だから3元なのよ」とのこと。
 とっさに「こちとら北京から来たんでい。北京は直轄市じゃあねえのかい」と言ってしまいました。あっさり2元にまけてくれました。

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No.7 一宿一飯の恩

 黄山という景勝地を車で訪れる途中で、馬鞍山、という場所を通りかかったことがあります。夷陵の戦いで敗走中の劉備が陣取ったあの馬鞍山? と一瞬思いましたが、私が通りかかったのは合肥の近くの馬鞍山でして、長江のはるか上流の夷陵戦役の現場とは全く別の場所でした。
 運転手さんの話ではここから黄山まではすぐだよ、ということでしたが、地図を見るとざっと200kmは離れていそうでした。大陸の感覚では車で五時間くらいまでなら「近い」という範疇に入るようです。
 街道沿いの農家さんでお手洗いを借りました。穴を掘ったところに、両足を乗せるための板が渡してあり、和式便所の要領で使うようになっています。ドアや水がなくても穴さえあれば大丈夫なんですね。
 犬や豚が柵も紐もなんにもなしでぶらぶらしていてなんとものどかでした。

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No.6 水のない河

 三国志好きの方なら「潼関の戦い」というフレーズにお聞き覚えがあるのではないでしょうか。馬超や韓遂たちが曹操軍と戦ったというあれです。その潼関も、たまたま通りかかりました(またしても)。
 当時勤めていた会社の取引先へ車で向かう途中に、大きな河を渡るなあと思ってふと外を見ると、石碑に「潼関」と書いてあるんですよ。で、地図を見ると、自分がいる場所は確かにあの潼関付近です。突然の遭遇でびっくりです。
 そのとき渡った橋の下に流れていたのは黄河で、川幅こそ広かったですが、水はほとんどなかったです。
 全然別の場所ですが、盧溝橋事件で有名なあの盧溝橋も、下を流れる永定河にはほとんど水がありませんでした。盧溝橋は北京の西の入口にあたる場所で、欄干に可愛い獅子の石像がついている美しい橋です。マルコポーロも絶賛していたとか。

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No.5 風蕭蕭として易水寒し

 始皇帝暗殺に赴く刺客・荊軻けいかが、見送りの人と別れる際に、二度とは帰らぬ覚悟を詠んだという場所、易水えきすい。そこもたまたま通りかかったことがあります。北京からほど近い(? 約130km)清の西陵という陵墓を観光した時のことです。
 地図を見ると、「易水」と書いてある川が西陵の手前にあるようなので、その場所へ行ってみました。農家の庭先の水たまりみたいなところにアヒルがちょろちょろとお散歩しているような、のどかな眺めでした。跨げば超えられそうな、川とも見えない小さな流れでした。砂漠化で水が涸れているのでしょう。
 私が行ったのは「北易水」で、易水の本体は「中易水」のようですが、いずれにしても荊軻が渡った頃とはずいぶん眺めが変わっていそうです。

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No.4 汨羅(べきら)を通った話

 昨日は長沙旅行の話を書きましたが、長沙までは北京から夜行列車で行きました。
 車中で寝まして、朝になって目を覚ますと、列車は小さな駅を通過するところでした。プラットホームの真ん中に立っている看板に、「汨羅」と書いてありました。
 ……汨羅って、の憂国詩人・屈原くつげんが身を投げて死んだあのベキラ? そう思って地図と時刻を確認すると、確かにちょうどその汨羅のあたりにいます。びっくりしました。無人駅みたいな小さな駅で、周りは畑だったので。
 とっても無造作。日本だったら、きっと「屈原終焉の地」と銘打って観光地化しますよね。汨羅のその素朴さ。なんだかすごく……グッときました。

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No.3 湘江のリゾート

 長沙の街の真ん中を、大きな川が縦断しています。湘江。長江の支流の一つです。
 街の東西を結ぶ橋の真ん中あたりには中州があり、橋から降りられるようになっていました。私が行った時は夏で、たくさんのビーチパラソルが立ち、浮き輪やビーチボールを売るお店や飲食店があり、さながらビーチリゾートのようで、水着姿で楽しむ市民が大勢いました。海が遠いから川で楽しむんですね。
 見ていると、何人かの子どもたちが流れを横切るように川を泳いでいて、一人の子だけ流されるように斜めに泳いで少しずつ下流に行ってしまっていました。あの子は大丈夫なのか、と心配になりましたが、周りの誰も気にとめる様子もありません。やがて何事もなかったように、中州の下流寄りに上陸していました。川で泳ぐのって、そういうものなんでしょうかね。

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No.2 長沙韓玄墓を訪ねてみた話

 馬王堆めあてで行った長沙。地図を買うと、「韓玄墓」と書いてあるのを見つけたので、行ってみることにしました。こちらは市街のまんまん中で、国際的アパレルブランドの店舗があるような大通りのほど近くでした。今はどうだか知りませんが当時は工事中で、砂っぽい小道の横に小さな川のようなドブのようなみぞがある通りをてくてく歩いて行きました。
 地図の地点を目指して行くと、学校の門に行き当たりました。どこにお墓があるのかとさんざんうろうろ歩いた末、門衛のおじさんに聞いてみると、前はここにあったけどもう他の場所に移設されたよと説明されました。時間がなかったのでそこで諦めました。おじさんの話が本当だったのかどうか、未確認です。
 韓玄の墓碑には「漢忠臣韓玄之墓」と刻まれているそうです。「忠臣」とは……。三国志のお話の憎まれ役のイメージと違いますね。

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No.1 馬王堆遺跡に行ってみた話

 湖南省・長沙市にある馬王堆漢墓。紀元前2世紀の貴人のお墓です。そこに埋葬されていた夫人の遺体が生きているかのような保存状態であったことから有名な遺跡です。もう何年も前ですが、そこを拝んできました。
 長沙の中心地から8キロほど。歩けなくもない距離(!?)だと思いましたが暑かったのでバスに乗りました。最高気温が39.8度という日でした。ペットボトルの水がお風呂みたいに熱くて飲めば飲むほどばてました。
 遺跡に着くと、監視係(?)のおばちゃんが「こんな暑い日によく来たねえ。座って扇風機に当たって行きなさい」と言ってくれました。有り難かったです。生き返りました。
 遺跡、よかったです。現地は穴ぼこ、中身は湖南省博物館に展示。この二つの場所は近いので一度で回れます。

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書籍のご紹介

ホームページ作りに使った本のご紹介

【ホームページ作成のツボとコツがゼッタイにわかる本 (最初からそう教えてくれればいいのに!)】

 WordとExcelしか使ったことのない私が、この本一冊で自分のサイトを作ることができました。
 最初「そうだホームページを作ろう!」と思い立った時に、インターネットでホームページ用の素敵なテンプレートをたくさん見つけたのですが、自分のいらない項目があったり、どこに何を入力して使うのか分からなかったりして途方に暮れました。
 そこで出会ったのがこの本で、自分で一から好きなようにページを作ることができました。同じ悩みをお持ちの方にぜひ手に取って頂きたい一冊です。
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『ホームページ作成のツボとコツがゼッタイにわかる本 (最初からそう教えてくれればいいのに!)』中田亨/秀和システム
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